2016年8月6日土曜日

シン・ゴ

ジラ。
見てきました。

東京に8年住んで地方に帰った人間の視点で見た率直な感想は、「僕ら地方民は映画の中で崩れたビルの一欠片ほどの価値もないし、民主主義に則って死ぬんだなあ」というものです。

ニッポンvsゴジラが今作のキャッチコピーでありましたが、このニッポンというのは作中で明言された範囲、関東圏のことを指し示します。
ので、まずそれ以外の場所に住むのはニッポンじゃない、切り離された視点で見ることになります。

なぜか。

それはゴジラの行動原理が不明だからです。
関東一円を適当に回遊して終わりです。

もともと(とはいっても昭和作品のゴジラに造詣が深いわけでないので極端な割り方になってしまいますが)ゴジラとは原爆・水爆に対するアンチテーゼ、核・放射能に対する怒り、憎しみ、恐怖といったものが顕現したような存在だったと思われます。

しかし今回作中で表現されたように、ゴジラは人の手には負えない神の使いであり、また人類の希望をもたらす福音であるとも評され最終的には共存の道を模索するとまでなります。
これは、モチーフが原爆→原発にシフトしたのかなという推測にはなってしまいますが、作中でゴジラがもたらした被害を鑑みるに、ほぼそうであるのは間違いないと思われます。

なので、以前からそこに存在するゴジラ(原発)に依存度の高い都市部(ニッポン)が、普段意識をしない日常の傍らにどれほどのリスクを抱えて生きているのかという描写に繋がります。

ここで現在地方民である自分は、「ああ、ニッポンから切り離されているから、ニッポン(首都圏)がどうなっても多分死にはしないし生活が送れてしまうんだなあ」という結論を抱きました。

ゴジラが限界集落の山村を荒らしに来ますか?
ゴジラがシャッターが軒並み閉まっている商店街をわざわざ踏み潰しに来ますか?

それはないでしょう。
地方民は、民主主義に則って自らが選んだ人間の政治によってより少数となり、消えていくのですから。

作中、主人公たちがこんなことを仰っていました。
「(政界は)敵か味方しかいない。わかりやすくていい」
「恐ろしいのはゴジラより人ね……」

そのとおり、シン・ゴジラが何に対して怒りや憎しみを持っているのか(そもそも感情というものがあるのか)はわからないまま、ただニッポンに生きる人々がどのようにして対応をするのか。
ある意味では、2010年代を表した時代劇だったのだと思います。

以上のことをひっくるめて、自分が劇場で見終わったあと抱いた感想は「首都圏の人は見て損はしないかなあ」、でした。
おそらく二回目を見ることもないかと思います。

ニッポンの外側の民。
シン・ゴジラは見る人見る立場によって存在する危機への警鐘、ただの特撮ショー、ちょっと極端な思考の啓蒙作品、どのようにも見えると思います。
自分が何をどう受け取るのか、それを掘り下げられる作品には間違いないかと。