悲劇。
戦姫絶唱シンフォギアGX13話を見終わった直後は、どうにも大団円とは思えずにすっきりせずにいた。
けれど、キャロルのキャラクターソングであるダウルダブラのカップリング、「tomorrow」を聞いて自分の中でGXは「悲劇」の物語として完結した。
歌詞もそうだが、まずこの曲で特筆すべきなのはそのタイトルと、水瀬いのりさんの表現力である。
タイトルである「tomorrow」。
日本語に直訳すれば、「明日」。
以下、自分なりにこの曲とGXに関しての解釈を連ねてみる。
まず、キャロル・マールス・ディーンハイムというキャラクターについてより深く考えてみる。
彼女は錬金術という「奇跡」によって「父親」と「夢」を殺された過去をもつ。
※世界を識るという命題を呪いに置き換えられたと言ってもいい。夢は呪いである。
「奇跡」、「親」、そして「夢」。
この三点に対してネガティブであるということが何を意味するのかは明白である。
それぞれが響、翼、クリスに該当する負の過去を、一切の救いなくずっと一人で抱えてきたということ。
装者たちが様々な仲間や反目する勢力と繋がってきた結果乗り越えられたものを、キャロルは孤独の中で深めていったのである。
まずここで、誰にも救いの手を差し伸べてもらえなかったことがひとつめの悲劇。
「tomorrow」では、歌い始めは非常に優しく語り掛けるようなウィスパーボイスで囁かれる。
恐らくは、まだ父であるイザークの温もりのもとでまどろむ幼いキャロルとしての語り口であると思われる。
そこから『もしもあの炎の日がなければ……?』と続き、『パパを壊さなくてもいいのかな……?』、と区切られる。
このパートは迷いや揺らぎを感じさせながらも、既に優しく囁くような声音ではない。
ここから曲調は盛り上がり、増していく音に対して荒涼、寂寞としたイメージを想起させる音色になる。
キャロルも、最初から迷いや苦しみを一切感じなかったわけではないということが伺える。
しかし、誰からも助けてもらえなかった。
一人で、もがくしかなかった。
その結果が復讐と突き立てた牙であり、暴虐に涙はいらないとなる。
キャロルのやり方は確かに間違っていただろう。
しかし、父から託された「夢」を、果たそうと願うことそれ自体は、否定をされなければならないものなのだろうか?
夢を叶えようとすることそれそのものは悪ではないと、装者たちや、ウェル博士も体現をしていたのに。
ここで、誰にも肯定をされなかったことがふたつめの悲劇。
『救いを求め願った自分が 醜く汚くて 血で血を洗い狂えと』
迷いを殺し、張り詰めた声で歌われる詩が、キャロルの状態にリンクして、崩れていく。
『ルルリラ……ルルRゥるRiラ…』
『パパは? Neえ? パPa ハ?』
歌詞にあるように、まさしく言葉が果てていく中で、キャロルの声だけがどこまでも透明に澄んでいく。
キャロルもまた、「そうするしかなかった」なかで、錬金術という力を行使できる強さがあってしまったがために間違えてしまっただけで、本当にほしかったものは、リトルミラクルで歌われたような、「普通の明日」だったのだ。
『「わたし」ヲ褒メテクレルカナ――――』
もはや飾ることもない、ただの「わたし」。
全てをなくしたキャロルが最後にエルフナインのもとを訪れて、彼女を救うために自らの身を差し出した。
誰かを救うために躊躇しない、キャロルの本質が明確に現れていたシーンである。
「俺たちは対価なしに明日を繋ぎ止められないのか……ッ!!」
GX12話で弦十郎はこう呻いた。
エルフナインの「明日」を繋ぎとめたのは、無垢なるキャロルの意志と、父から託された錬金術という「軌跡」である。
『らLaラ…ラRぁらら…』
詩にすらなっていない、少女のような、女性のような声だけがメロディーと共に消えいる。
キャロルが繋いだ確かな「明日」に、キャロルだけが存在しない。
これが対価というのなら、悲劇といわざるしてなんと言おうか。
フィーネやウェル博士も、最終的には何らかの形で救済をされて物語から退場した。
キャロルだけは、ついぞ誰にも救われることなく、キャロルとして進んできたことを誰にも肯定されることなく、幕を引いた。
キャロルこそ生きて、救われてほしかった。
そして、もしもあのキャロルの終わりを救いだと評されるならば、響と未来の関係にも同じ終わりで救いと言えるのかを問いたい。
キャロルとエルフナイン。
響と未来。
どちらも、お互いが罪の意識を分かち合った、かけがえのない存在であることには変わりない。
次が匂わされるエンディングだっただけに、この悲劇も乗り越えて、本当の大団円で決着を見ることは叶うのだろうか。
シンフォギアライブ2016で発表されたら、嬉しいような、怖いような。
20151006追記
BDが届いてRADIANT FORCEが聞けるようになったので早速聞いてみたところ、また自分のなかでふつふつと。
RADIANT FORCEで歌われたのはまさしく、響、翼、クリスが紡いできた過去を束ねた軌跡。
明日に繋がる愛と夢を歌う曲だ。
この歌を聞いたときに率直に感じたことは、キャロルからすれば最初から勝ち目のない戦いだったのだということだった。
こと、歌において響たちは相対した歌がどんな歌であれ、絆にし、力へと変えてみせる。
明日に繋がる今日に生きることが、一人じゃないことを知っている。
それに対して殲琴・ダウルダブラ。
たった一人で歌う曲だ。
『愛など見えない』、と。
それもそうだろう。
先にキャロルを裏切ったのは奇跡、世界の愛のほうなのだから。
だから、私も奇跡を殺して何が悪いのだと、想い出を燃やし歌う。
しかし、「tomorrow」にあったように、キャロルも本当は想い出を燃やしたくない。
大切なパパとの記憶を、壊したくはないのだ。
それでも彼女には錬金術しかない。
シンフォギアのように、純粋に歌を力とは変えられないのだ。
だから、想い出も自分自身も何もかも、なくなってしまえばいいと。
虚無こそが安寧の楽園だと思い込ませて愛を歌うのだ。
そんなキャロルに対して、RADIANT FORCEを歌う装者がどれだけ重苦な憎しみを感じさせるものだったかは、慮ることすらできない。
また、「tomorrow」に対してリトルミラクルがどうであったかも重要で、
『言葉がなくたって 言葉じゃなくたって』
『やり直せばいい 壊れたって もうへいきへっちゃら』
『私はまた立つ…! 明日へと』
と歌われている。
「tomorrow」は、
『言葉が果てる 記憶がバラバラと 音を立てて崩れ逝く』
『せめて歌なら メロディーにして願ったなら パパを壊さなくてもいいのかな……』
『魂も何もかも 炭にして舞い飛べばきっと また逢える』
と、ことごとくが対照的に歌われているのはどうしてなのか。
それは、根本的なところでキャロルと響が極めて似た部分を抱えているからである。
一期の響を思い出してもらいたい。
常軌を逸した「人助け」は、翼に前向きな自殺衝動かもしれないと釘を刺された。
あのときの響も、夢などではなく自ら抱え込んだトラウマから逃げるように、「ここにいてもいいのだ」と自分に言い聞かせるために人を助けていた節がある。
キャロルもまた然り。
世界を解き明かすという命題は、この世界に留まる理由そのものであり、そのためならば自らの身体はもとより大切な想い出もただの消耗品にしてしまえる。
二人にとっての「人助け」「世界を識る」とは、生きているだけで感じる痛みを消すための麻薬なのだ。
ただ違ったのは、響には奏からもらった言葉があり、未来がいた。
キャロルは、世界に一人ぼっちだった。
このことからキャロルの結末は、「悲劇の英雄」となってしまうのだ。
目の前に苦しんでいる人がいる、助けられる力がある。
だから、助ける。自分の身がどうなろうとも。
消えて尽きてしまったキャロルは、一期の最後にてもしも響がひとりぼっちだったのなら、という解答なのだ。
流れ星は、墜ちて燃えて尽きて。帰ってこなかっただろう。
しかし痛烈に皮肉なのは、それがまさしく英雄なのだというところ。
響では、どうあっても、エルフナインを救うことはできなかったのだから。
歌で救えない明日を、彼女自身の軌跡で救ったキャロル。
もし彼女をひとりぼっちにしないであげられる人がいたのなら……と考えてしまうぐらいには悲しくて仕方がない。
再追記。
「お前も人助けして殺されるクチなのか!」
「オレが奇跡を殺すと言っているッ!」
序盤でキャロルが口にしたこの台詞、結末を知ってから聞くとなお重い。
まごうことなく奇跡を殺してみせた(歌ではなく錬金術で救ってみせた)けど、結局この子自身が、人助けをして死んでいくクチの……という。
生きて赦されてほしかったなあ。
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